努力することと、上達すること
コミケもJGCも終わりまして、後処理も済んで、iTunes9も来て(SnowLeopardは自分には関係ありません)、ようやくブログを更新する時間ができました。
で、自分の書庫には何回か前のコミケで買った同人誌とかが紙袋に包まれたまま未整理の状態で転がっていたりしていたのですが、これをなんとか整理していたところ、書庫の隅っこから金澤尚子先生の『ぴよぷー☆生活』が出てきました。
この漫画も単行本発売されたのが9年半前でして、FEARのサイトでは品切れとなっておりまして、しかも金澤先生とFEARの現在の関係を察するに再販も絶望的なので新品入手はほぼ不可能という、既に過去の遺物となりかけている代物であります。
私としては「くいっくすたーと」みてぇなGF会員にしかネタが分からんような身内受けで終わっている漫画を出すよりも、コレや『ぴよぷー☆生活2』のような含蓄が豊富になってためになる本をぜひとも再販して頂きたいと思うのですがどうでしょうか社長?
さて、ここで『ぴよぷー☆生活』を引き合いに出したのは、最近私がふと思ったことがこの本にも載っていたのを思い出したからであります。
TRPGを遊び続けて、面白さが分かってくると、より面白くなりたい、よりうまく遊べるようになりたいという『向上心』が芽生えてくることでしょう。
当然だと思います。
面白みが分からなければ、向上心も何もあったもんじゃないですから。
向上心を実現させるために、プレイヤーは『努力』します。
これも当然だと思います。
私は(私も)、『向上のための努力』を否定しません。
「より良く遊ぶために努力する」、すばらしいことだと思います。
「より良く遊ぶために勉強する」、これもいいことだと思います。
でも。
人に向かって「よりよく遊ぶために努力しろ」と言うことは、本当に素晴らしいことなのでしょうか?
「よりよく遊ぶために勉強しろ」と言うことは、本当にいいことなのでしょうか?
この話をするためには、「TRPGにおける努力」や「勉強」が一体なんなのかを考える必要があります。
考えられるものを、ざっと羅列してみましょう。
…とりあえずこのくらいにしておきましょうか。
念のために申し上げますと、今挙げたのは全部日本の実話です。
RPGの本場アメリカともなりますと、「死んだペットを魔法陣と儀式で甦らせようとする」とか、「『RPGは悪魔のゲームだ』と主張している宗教団体のあしらい方を覚える」などなど、シャレにならない事例になってしまいますので…
話を戻します。
『ぴよぷー☆生活』では、29ページで「なんで遊ぶのに勉強せにゃあかんの」という一コマがあります。
これに対して、32ページには、読者からのコメントが掲載されています。
「早い話がTRPGを真の意味で楽しむためには、プロのつもりでやれ、というわけです。大体、勉強や努力を一切行わずに存分に楽しめる娯楽なぞ私は聞いたことがありません。」(一部抜粋)
プロのつもりでやれ、というのは過剰な誇張だと思いたいですが、勉強や努力を一切行わずに、というのには反論の余地があります。
というのは、TRPGのシステム構造(の一部)が、事前の勉強や努力を徐々に必要としない方向に進んでいるからです。
(スクウェア・エニックスの)『ドラゴンクエスト』第1作は、「プレイヤーが説明書を読まなくても遊べるように」デザインされた、という話は有名です。
勇者に名前を付けて、その次には勇者はラダトームの城の王様の目の前にいます。
王様から説明を受け、お金と鍵をもらって、その鍵で扉を開ける。
こうして勇者の旅が始まる。
事前に何の説明がなくとも、ボタンを押せば話が始まるのです。
他の必要な情報も、城内や街で人に話せば手に入ります。
TRPGでも、「ルールブックを読む」という最低限の作業は必要ですが、それ以外の作業は可能な限り簡略化されたものが用意されている方向性があります。
たとえば、プレイヤーキャラクターを作成するのに手間や時間がかかったりする場合、「アーキタイプ」「テンプレート」「クイックスタート」などの簡略化された手段が用意されています。
これは、キャラクター作成のためのルールを読まなくてもすぐ(!?)に遊べるようにという配慮の一つです。
システムによっては、キャラクターを全てサイコロの目だけで作成できることすらあります。
ルールの基本構造も、簡略化される方向にあります。
クラシックD&Dでは、20面サイコロの目が高ければ良かったり、低ければ良かったりと、判定によってサイコロの使い方がバラバラでした。
しかし、D&D3.5版のプレイヤーズ・ハンドブックには、「このゲームの基本のしくみ」として、20面サイコロを振って修正値を足し、目標値と比較して高ければ成功、というふうに簡潔に明記され、ルール理解の一助となっています(これは4版でも「基本システム」として同じことが書いてあります)。
「ソード・ワールドRPG」をはじめとする日本製のシステムでは、2つの6面体サイコロを使うシステムが多数見られます。
これも、基本的には同じ判定システムを使うことで、理解の簡略さの一翼を担っていると言えます。
「ブレイド・オブ・アルカナ」のように20面体を多数、「ダブルクロス」のように10面体を多数使うシステムなどは、日本では珍しい方です。
これらの簡略化によって、求められる「遊ぶための努力」は減少傾向にあります。
加えて、FEARでは、それまでTRPGを見たことも遊んだこともない人にいきなりルールブックを渡して、その人が遊び方を理解できるかという、一種のブラインドテストを行い、ルールブックの問題点を洗い出していると聞きますので、これも「遊ぶための努力」を減らすための企業努力の一つと言えます。
個人的には、そのテストは本当に機能しているのかどうかはなはだ疑問ですが。でなきゃ「ドラゴンアームズ」や「異能使い」や「アルシャードガイア」みたいなクソ読みにくいルールブックが世に出るはずがありません。
一方で、TRPGを含めた「趣味」の中で、上達するための努力や勉強は楽しいのも事実です。
私事で恐縮ですが、自分は現在はTRPGの他には、Nゲージ鉄道模型を趣味としております。
鉄道模型もかなり奥が深いものでして、組み立て塗装済みの完成品を買ってくるのはもとより、プラモデルと同様の板キットだったり、ものによっては真鍮製の組み立てキットだったりします。
プラキットはガンプラにプラ用接着剤と塗装を足したようなものなので、慣れれば簡単に組み立てられます。
一方、真鍮キットは瞬間接着剤で組めるものもあれば、ハンダ付けで組み立てるというか接合する(ハンダコテも電気工事用の20Wや30Wではなく、自分は80Wのものを使ってます)ものもあります。
ハンダ付けにはそれなりの知識が必要ですので、ホームセンターでコテとハンダとコテ台を買い、東急ハンズで耐熱ベークライト板を、あとは鉄道模型専門店で工具数種類を揃えて、ハンダ付けの特集がちょうどある鉄道模型誌にあったのでそれを見て練習し、それでようやく組み立てに入るという算段でした。
確かにお金がかかりましたし、慣れるのに練習が必要でしたが、あれこれ苦労しながらも楽しい時間だったのを覚えています。
ちなみにTRPGに手を染まる前はエアモデラーでした。
タミヤではなくハセガワの戦闘機キットをいっぱい買っていました。
エアブラシを持っていなかったので迷彩は筆塗りでした。
筆ムラを防ぐのに苦労しました。
当時の『航空ファン』誌には戦闘機キットの組み立てレビュー記事が載っていました(今でも載ってますね)。
今のガンプラとは違ってパーツのすり合せや接着剤のはみ出しがシビアだったので、とても人に見せられる代物ではありません。苦労しましたがこちらも楽しかったです。
さてTRPGに話を戻しますと、自分で買ってきたルールックを読み進めて、それを自分のものにして頭の中に理解できる形にする作業というのは、基本的に楽しい作業であるといえるでしょう。
(苦痛だったのもあるけどな!「ドラゴンアームズ」とか「異能使い」とか「アルシャードガイア」みたいに)
一通りルールを覚えたら、そのルールが実際にどう動くのか、頭の中でシミュレートしてみるのもまた楽しいものです。
で、実際のセッションでルールを動かしてみて、そのルールの楽しさ、キャラクターの楽しさ、ロールプレイの楽しさを実感することができます。
もうお分かりでしょう。
TRPGでも、上達するための努力や勉強は、楽しさを追求するためにあると言っていいでしょう。
ですから、TRPGの上達のための努力や勉強は、「楽しい」という前提の上に成り立っているのです。
長々と書いてしまいましたが、いよいよ本題です。
「自分は楽しむために努力や勉強をしたからこうして楽しんでいる。だからお前も、楽しむために努力や勉強をしろ、プロのつもりでやれ」という論理は、果たして正しいものなのでしょうか?
確かに、自分が上達のために努力や勉強をしたのは楽しかったかもしれません。
ですが、同じことを同じテーブルの別のプレイヤーに向けても、その別のプレイヤーが努力や勉強の過程を楽しいとは思わないかもしれません。
むしろ、苦痛に感じてしまうかもしれません。
(そう、俺が「ドラゴンアームズ」とか「異能使い」とか「アルシャードガイア」のルールブックを読んだ時のような苦痛だよ!)
しかし、ここに問題があります。
特にコンベンションで顕著なのですが、一部の「上級者」プレイヤーには、他のプレイヤーにも、自分と同じプレイレベルや上達の努力を求め、それが満たされないプレイヤー(やゲームマスター!)を明らかに軽蔑、侮蔑する者がいるのです。
海外RPGを遊んできた人が国産RPGのプレイヤーを軽蔑する(例:Cyberpunk 2.0.2.0.、Shadowrun、電撃文庫版D&D)ように。
クラシックD&Dを遊んできた人がFEARゲーマーを軽蔑するように。
D&D3.5を遊んできた人が4thのプレイヤーを軽蔑するように。
「ドラゴンランス」や「フォーゴトンレルム」を読んできた人が、「ロードス島戦記」や「灼眼のシャナ」を読んでいる人を軽蔑するように。
(参考エントリー:「初心者の敵」)
また、上記のようには行かなくとも、コンベンションでリプレイを読んでいることを前提にプレイヤーを募集していることもあるので、これもある意味で「遊ぶための勉強」をあらかじめ要求していることになるので、注意が必要です。
ルールブックを読むのが楽しくても、リプレイを読むのが苦痛なプレイヤーもいるんですよ。
俺とか。
(参考エントリー:「初心者以下」)
じゃあ、みんな公平に遊ぶにはどうしたらいいんでしょうか?
一番簡単な方法は、「セッションテーブル内の最低レベルに合わせる」ことです。
たとえば、「ソード・ワールド2.0」や「ダブルクロス3rd」はそれぞれ3分冊ですが、両方とも分冊1だけでセッションを遊べるように設計されている(らしいです。持ってないので…)。
それなら、分冊1の範囲内のルールだけで遊べば、他の分冊を持っていることによる「努力の差」「勉強の差」はかなり抑えられますので、比較的公平に遊ぶことができます。
D&D3.5や4thなら「サプリメントを使用しない」とか、『シャドウフェルの影』にある「クイックスタート・ルール」をプレイヤーに配布するなどの方法もあります。
専門的ですが、ゲームマスターがプレイヤーをレベリング調整することで、「努力の差」「勉強の差」をコントロールすることができるのです。
重要なので繰り返します。
私は(私も)、『向上のための努力』を否定しません。
遊ぶために勉強すること、努力することは楽しいです。
しかし、それを人に押し付けて、苦痛にするようであってはいけません。
最後に、私のプラモデル製作のバイブルである、「SUPER MODERING MANUAL MAX渡辺のプラモ大好き!」から、巻末の言葉を。
「趣味だから楽しく過ごしたい、趣味だからこそ真剣に取り組んで上達したい。どちらも正しい、あるべき姿だと思います。ところであなたは、どちらのタイプに近いですか……。」
長々とありがとうございました。
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